捨てる判断

情報が氾濫している。
以前であれば、新聞やニュースで入ってきていた情報が、パソコンで簡単に手に入るようになった。
しかもそれは時間ごとに更新され、膨大な量が毎日発信されている。

その中から自分に必要な情報を取捨選択し、生活に生かすことが重要だ。
中でも、捨てる、という行動が重要だと考える。

氾濫している情報の中には、自分に必要が無いものもたくさんある。
それを見極めることによって、本当に必要な情報を手に入れるスペースができる。
何を捨ててもいいかという判断が重要だということだ。

ネットサーフィンという言葉があるくらい、インターネットの中では次から次へ興味をそそられるものはある。
だからといってそれを全て呑み込んでいてはパンクしてしまう。

情報が氾濫しているからこそ、自分で規制をかける必要がある。
情報を上手く自分のものに出来る人は、その分野で一歩も二歩もリードしているのだ。
ただ常に最新情報に振り回されている人も多く見受けられるため、それは逆に言えば危険な事でもある。

全ての情報を咀嚼することは不可能なため、自分に必要なものとそうでないものを、常にフィルターで仕分けすることも大事な事ではなかろうか。
モノが捨てられない人の特徴は、欲張りでもある。

何もかも欲しがるが、手に入ればその時点で目的が達成されているため、利用するということが驚異的に少ない。
どちらかと言えば、心が満たされればそれで良いのだ。

人生に知識はいらない

私は知識は必要ないと思って生きている。
言い過ぎではあるが、これを人生の指針の1つとして定めていることは嘘ではない。
私は物理学者アインシュタインを尊敬している。
彼は当時、人が思いも寄らないようなことを論文としていくつも発表している。

彼に憧れ、私も物理を学ぼうと思った。
彼のように生きたいと思った。
もちろん、生きて行くのに知識はいる。
知識のない人間なんていない。
だけど、特に情報化された現代では知識を振りかざし、知識こそ正義というような空気感がところどころで見受けられるのが嫌だった。
それに反発したい気持ちもあっただろうし、そんな人間よりもいいアイデアを思いつけるし、いい仕事ができる自信もあった。
大好きなアインシュタインも不要な知識を身につけることで新しい発想ができなくなるということを言っていた。
「知識は図書館にある」という格好いい言い方をしていたと思う。
私はその考え方に従うことにした。
それまでは、周囲の人間に知識レベルでも負けたことはなかったし、色んなことを知ろうとする気持ちは人一倍強かった。
物理を志す人間というは概してそういうものである。
しかし、その生活を、生き方を捨てることにした。
自分の人生を使って、新しい生き方を実践する覚悟をした。
大学卒業間近に友人と話し込み、「自分はその生き方でこれから社会に出る。お前は知識を集めて解答を見つけ出す生き方をして仕事をする。どっちが正しいか楽しみに生きよう」と決意した。
その後数年経った。
今のところ、私はまだ自分の発想を仕事レベルで活かしきれていない。
これからどうなるか楽しみである。

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